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◎中絶の物語を語ること
中絶の物語のはじまり
インターネットで多くの人が妊娠中絶の体験を語るようになって何年かが過ぎました。インターネットというメディアが登場する前に、どれだけの人がそれを語ることができたか、それをどれだけ人が目に/耳にすることがあったかを考えると、インターネットというメディアが妊娠中絶体験について語ることのきっかけになったと言えるでしょう。
ある程度の匿名性をもって語ることができること、体験の当事者どうしが広く結びつくことができること、などは、インターネットの「利点」としてもはや語りつくされていますが、ほんの数年前まではどこにもなかったものです。また、このような匿名性・当事者どうしの結びつき、といった条件は、セルフ・ヘルプ/自助グループのそれと似通っているとも言えます。
インターネットが私たちの生活の中に登場する以前は、中絶の物語はずっと限定されたものであったと思います。つまり、
・直接耳にする、身近な人の体験談
・うわさ話
・雑誌の記事や本に書かれたこと
・医学的・教育的「事例」
などであったと言えます。
当事者による物語は、あまり聞かれることがなく、伝聞によって弱められていたり、あるいは本の著者という限られた人の体験でした。また逆に、医学的・教育的な立場から語られたり、うわさとして人の間を流れる間に解釈が加えられたりすることで、当事者による物語は力を持つことができないでいました。
中絶の物語がはじまるために、必ずしもインターネットが不可欠であったわけではないとは思います。しかし、インターネットの登場は中絶の物語のはじまりのきっかけとなりました。現在、私たちは中絶の当事者による体験談をたくさん目にすることができますし、当事者どうしが語り合ったり、情報を交換したりすることも簡単にできるようになってきました。
現在、日本では多くの人がインターネットにアクセスすることができ、特に若い人々の間ではさらに不可欠なものとなっていくでしょう。その意味においては、中絶の物語は、経済的階層・社会的階層に関係なく、それを必要とする人々にとって、広く開かれたものになっていると言えるでしょう。
中絶の物語のいま
インターネットで中絶体験が語られるようになったことは、中絶の物語に三つの側面から変化をもたらしたと言えます。ひとつは中絶体験が語られる場の変化、ひとつは語り手の変化で、もうひとつは語られる内容と、それぞれの物語の間の関係の変化です。
中絶体験が語られる場が、それまできわめて狭い範囲での口頭での語りであるか、逆に書籍や雑誌というメディアであったのに対し、現在の中絶の物語はインターネットにおいて、ひとつはホームページという形で、もう一つは掲示板への書き込みという形でなされています。ホームページでの物語は、書き手が比較的限られていて、より長く複雑な物語が語られる傾向にあります。掲示板での物語は、短くて断片的である一方、非常に多くの書き手によって書かれ、意見の交換や相互作用も広く、速いスピードで行われます。また、掲示板では、中絶の当事者とそうでない人との間での相互作用の場でもあると言えます。
語り手の変化について言えば、中絶の物語がそれまで、医師や教育者といった当事者以外の立場から書かれてきたり、ある特定の誰かの中絶体験だけが語られたり、あるいは誰かの手によって編集されて語られてきたのに対し、圧倒的に多くの当事者が中心となり、複数の異なった立場から、異なった体験が、直接当事者の手で書かれるようになりました。また、医療や教育といった、これまで特権的な立場にあった書き手に対しても疑問が投げかけられたり、異論が書かれたりするようになったと言えます。
語られる内容は、多様化が進んだこと、精神的・心理的な側面についてより多くなったこと、男性の存在・男性との関わりについて考えられることが増えたこと、などの変化が見られています。同じ中絶の当事者といっても、経験したことや感じ方・考え方が時には大きく異なること、中絶を選択した当事者が、命の問題について決して無関心ではないことなどが明らかになっていると言えます。同時に、これまで医学的な側面や、社会倫理的側面が強調されることが多かったのに対し、当事者の心理的な状態について語られることが非常に多くなったことも目につきます。また、生むことができなかった子供に対する思いがつづられるという形式も多く見られるほか、自己に対する厳しい洞察や責任意識が獲得されること、あるいは男性との関わり−男性との協力関係や愛情、鋭い対立、人間関係に引きずられることへの反省、男性との間でのディスコミュニケーションなど−も多く書かれています。
一方、ホームページでの語りの中に、中絶手術や避妊、性感染症、出産に対する公的補助などに関する知識が登場し、より知識を広めたい、同じことで苦しむ人に減ってほしいという啓蒙的な意図も広く見られます。また、それぞれのホームページの間で、それらの意図や知識が模倣・共有されることによって、ひとつのページが持つようになった新しい意図が他のページにも伝わる、といった相互作用も比較的早く進む傾向にあります。また、それぞれのページの間に、リンクという相互認知が見られるほか、ページや掲示板に見られる、「管理する」という表現は、失われたコントロールを取り戻すことへの意欲を連想させます。
このように、インターネットにおいて中絶の体験が語られるようになったことで、語り手や内容に変化が生じたほか、ホームページを作るということそのものがひとつの形式−多様でありながら相互に影響しあうことで変化していく動的な形式−として成り立ちつつあるということができるのではないかと考えられます。
中絶の物語の意義と限界
中絶の物語が当事者の間で行われ、当事者どうしのコミュニケーションが行われるようになったことは、これまでには得られがたかった共感、相互理解、情報の共有が可能になることにつながり、一定の成果をもたらしたということができると思います。また、物語を語ることそのものが当事者にもたらす、自己の体験を整理して考え、罪責や悲しみ、不安といった感情を整理していく作用や、自己反省や洞察へのきっかけとなりうることも、中絶の物語の意義であると言えるでしょう。
さらに、当事者による中絶の物語がいくつも語られ、それが多くの人の目に触れることは、当事者の存在に対する認知につながる一方、これまで中絶体験を語ることがなかった(そしてこれからも語らないかもしれない)当事者にとってもまた、意義のあることであったかもしれません。また、当事者が作り出す語りが認知されることは、中絶に関する古い物語−当事者の女性に原因と責任があるとし、単純にそれを責めたり、あるいはそのような当事者を特別な存在であると見なすこと−への反論や塗り替えへの契機ともなっています。また、中絶という問題において、役割を見いだすことができないでいた男性に対して、何らかの関わりの方法を提示することも、中絶の物語のひとつの成果であると言えます。
また、中絶の物語は、その他の語りから孤立して行われているわけではないのも事実です。当事者の語りは常に、当事者以外の人々からも見られており、当事者と外部の人々との間にもコミュニケーションや相互作用が存在します。
一方、現在の中絶の物語にも特有の限界や問題点が指摘できます。
・コミュニケーションの限定
それぞれの当事者の意見や体験が言葉に書き表される際に、そのすべてが反映されるとは限らないことから、しばしば意見の交換は限定された個人情報に基づくものとなってしまうという問題があります。これは掲示板におけるコミュニケーションにより強く見られる傾向があると言えるでしょう。これが意見が交換される際に、思いこみや推測で書かれてしまうという結果につながることもあります。深い対話の糸口にはなり得るとは言え、多くのコミュニケーションが依然として限定されたものであると言えます。
このような限定のもとでは、個人の事情に深く関わり、発言者に対する信頼があってこそのコミュニケーションが成立するのはなかなか困難なことです。男女関係、親子関係、生むか生まないかの選択、生き方などに対して、説得力や責任を持ち得るコミュニケーションのためには、さらなる対話の積み重ねが必要であると言えるでしょう。
また、当事者の自分自身に対する語りは別にして、さまざまな体験の解釈や実用的な情報の多くが、相互に依存しあっていたり、出典の保証を欠いていたりして、明示的な根拠を欠きがちであるという問題も別に存在します。また、根拠や出典を示すにも、最終的には書籍など外部のソースに頼らざるを得ないのも、ひとつの限界であると言えます。もちろん、それぞれの語りが互いに相互作用しあっていることから、不充分・不正確な情報には訂正が求められるなど、物語全体が改善に向かっているのは事実ですが、まだまだ改善の余地は多く残されています。
・未熟な物語
現在の中絶の物語は、複数の個人によってなされているものの集積であり、それぞれが思考のプロセスの途上にあると言えます。場合によってはそれが未熟なものであると受け止められたり、未成熟な物語が再生産されることに対して疑問が持たれるということもあります。また逆に、不慮の妊娠という問題を抱える人々が、次から次へと現れる現状においては、何度も同じ問いが繰り返されたり、物語が未熟であったりすることはやむを得ないことでもあります。これに対し、しばしば性急な改善を期待する声は、あとから来た人々、期待したよりも進みの遅い人々に対して冷淡であったりぞんざいであったりすることもしばしばです。
悲しみの克服、自己洞察や強い生き方の獲得のためには、プロセスが大切なのであって、一概に正解だけを示しても問題はなくならないということが理解されるべきではないかと考えます。重要なのは、人がどう考えるべきかという正解よりも、どのようなプロセスを経ればそこに至ることができるかということなのです。
・発言のポジション
現在の中絶の物語が、そのほとんどが匿名−その場限りのものから、ある程度のプロフィールの提示と存在の継続が伴うものまで多様ですが−でなされるコミュニケーションであるがゆえに、医療や教育、法律などの専門家を名乗る発言のほとんどは、それにふさわしい実効的な重みを持つことができません。しかし時に、そのような立場を名乗る声が、自身の立場における一当事者としてのポジションを超えて、特権的な発言のポジションを要求することがないわけではありません。
一方、中絶の当事者どうしの間でも、経験した内容の違い、バックグラウンドの違い、経済的・社会的リソースの違いなどがあります。自身の経験を一般化したり、自身が経験から見いだしたのと同じことを他の当事者に期待することは、当事者の間であってもディスコミュニケーションを生み出すことにつながります。その意味において、中絶の当事者もやはり特権的なポジションからの発言ができるわけではないと考えるべきです。
さらに、当事者や専門家、そして当事者でない物語の読者のすべてに当てはまることですが、発言することの前提として、自分もまたセックスをする−かもしれない−人間であり、(ふたたび)不慮の妊娠という問題を抱えるかもしれないという認識が不可欠であると考えます。結婚していても、無条件・無制限に子供を産み育て続けられるわけではないこと、きちんと避妊していても、100%の避妊はありえないこと、現在セックスするパートナーがいなかったり、そのつもりがないとしても、過去や未来においてそうであったり、ありえること、そのような視点を欠くことは、誰かを思いつきで責めてみることや、とにかく誰かを罰したくて仕方のない発言につながっているのではないでしょうか。
中絶の物語に期待されること
インターネットを介して広がってきた中絶の物語は、当事者による語りの場を作り出したこと、それに対する認知を得たこと、自己の体験について語るというひとつの形式をもたらしたことなどといった、一定の価値を達成してきたと言えます。一方、上記したような、コミュニケーションの問題や、情報の質に関する問題など、まだまだ改善されるべきことは多くあります。そのような価値がより達成され、維持されること、そして問題点が改善されていくことが、今後の中絶の物語には期待されます。信頼性のおける情報源や、単純に正解を示すだけでなく、問題の解決に結びつくコミュニケーションなどが必要であると言えるでしょう。
それらを通じて、実際の成果として以下のような形で結実するということが私たちの希望です。
・避妊に関する知識がより広まり、知識の欠如や避妊の不備による不慮の妊娠が少しでも減ること。
・避妊が充分に行われないことに社会的要因があるとすれば、それを見出し、改善につなげること。
・女性に産むか産まないかの選択の権利があることが明確にされ、中絶を選択する人々に充分な情報と支持がもたらされること。
・避妊・妊娠・中絶のすべてにおいて、パートナーである男性の果たすべき役割が明確にされ、それを果たすのが自然なことになること。
一方、そのためにひとつ必要なことであり、かつ中絶の物語が重要な役割を果たしうる問題として、中絶をめぐる「古い物語」の打破ということが挙げられます。「古い物語」とは、以下のようなものを念頭において言っています。
・中絶の原因は、女性が複数の相手とセックスすることである
・中絶の原因は、女性(や男性)が性欲を抑制できないことである
・中絶が「増えた」のは、最近の若者が性的に乱れているためである
・中絶する人々は特別な存在であり、「遊んでいる」「若い」人々である
・中絶する人々は、「赤ちゃん殺し」をして平気である
・中絶する人々には(何らかの)烙印が押される
・中絶による「殺し」は、貧困や暴力、あるいは食肉生産などによる「殺し」に比べ、とりわけ残虐である
・避妊、妊娠、中絶などの問題は本質的に女性の問題である
・多くの相手とセックスすることは、男性にとっては価値のあることである一方、女性にとっては罪悪である
・子供を持たないことは不幸であり罪悪である
・避妊について若い人々に知らせることは、彼らがセックスすることを容認することであり、よくないことである
このような「古い物語」はすべて、現在妊娠中絶がおかれている状況に荷担していて、かつ不慮の妊娠を再生産する一因になっていると言えます。中絶の物語がより広い認知を得ていくことは、これを淘汰し、塗り替えていくことにつながると考えています。
そのために私たちが次にすべきことは何か。そのステップとして、私たちは中絶体験の語りをまとめた本を出版することを企画しています。(こちらをごらんください)
※以下の書籍を参考にしました。
セクシュアル・ストーリーの時代/ケン・プラマー 新曜社 1998
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