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◎セックス・妊娠・中絶と社会
ここでは、妊娠中絶の問題の背景にある社会的なことがらについて、書いてみたいと思います。他の項に比べ、「思ったこと、感じたこと」が多く含まれるので、違和感を感じられる方があるかもしれませんが、ご意見等あればメールなどいただければと思います。
●中絶イメージの誤り
一般的なイメージとして、妊娠中絶を経験するのは若い未婚の女性で、性の「乱れ」の結果である、というようなイメージが流通しているように思います。また、中絶する女性は大して痛みを感じることもなく、何気なく子供を「おろして」しまうというイメージも同時に伴っているように思います。
結論から言うと、このイメージは全くの誤りです。10代の中絶が増えているのは事実ですが、依然として30代以上の中絶が半分を占めているのが理由のひとつ。また、性の「乱れ」という言葉が何を意味しているにしろ、不慮の妊娠は、性行為の回数が多い、性行為の相手の人数が多い、あるいは低年齢で性体験をする女性に限られた現象ではありません。不慮の妊娠につながるのは、性的な活発さではなく、むしろ知識の欠如や、男性に対していやだといえないことだと言えます。
また、中絶を経験した女性が、ほとんど例外なく精神的な苦痛、喪失感、罪悪感を強く感じていることも改めてですがここに記しておきたいです。子供を「おろして」平気な女性のステロタイプは、女性たちの強がりだけを一面的に取り上げたものであるか、当事者をおとしめる捏造であるのではないでしょうか。あるいは、インターネットの登場以前にどれだけ女性が中絶体験を語ることのできる場が少なかったかを考えると、そのような声がイメージに反映されていないのも無理はないかも知れません。
現在でも、雑誌やテレビに表されている妊娠中絶のイメージの多くは、「できたらおろせばいい」と考える若い女性であるとか、逆に中絶手術が残酷であったり、大きな身体的苦痛を伴うものである、といったようなものであり、安易であるか、逆に女性に対して懲罰的である傾向が強いように思われます。これはどちらも若い女性に対するおとしめであり、正しい情報を伝えていないと言えます。
●セックスの社会性
私たちにとって、セックスは個人的なことであると見なされがちですが、実際には私たちがセックスを求めたり、迫ったり、拒みきれなかったりといった行動は、どれも社会的な背景を伴っています。実際には、セックスはきわめて社会的なできごとであると言えるでしょう。
私たちがなぜセックスをするのか、その理由は、生物的本能だけでも、快楽や性欲だけでも説明できるものではありません。
なぜセックスせずにはいられないのか
なぜセックスせずにはいられないのかの説明として、しばしば「本能的な」性衝動や、快楽だけが強調されますが、実際には私たちは、セックスする生き物ないしセックスのプレイヤーであることを社会的に要求されていると言えます。
セックスの経験がない・乏しいことを恥ずかしいと若い人々が感じることや、セックスレスが問題にされていることからもわかるように、この社会において、セックスのプレイヤーでないことは、何らかの落伍者であると見なされることにつながっていると言えるのではないでしょうか。セックスを恋愛に置き換えてみると、それはさらにわかりやすいと思います。(たとえば、「性的魅力を失ったおじさん・おばさん」や、「彼氏・彼女のいたことないオタク男女」にむける私たちの視線はどうでしょうか?)
また、この背景には、セックスがある種のコミュニケーションであり、セックスの相手がそのコミュニケーションの相手、セックスの相手を得る能力がそのコミュニケーションの能力として暗黙のうちに了解されていることもあると言えるかと思います。
私たちは、セックスというコミュニケーションのプレイヤーでいたい、そこから落伍したくない、セックスのプレイヤーとして認知されていたい、そんな気持ちを持ってセックスをしているのではないでしょうか。
なぜセックスを拒めないのか
しばしば望まない妊娠や、あるいはデートレイプの背景に、女性がいやだと言えないという問題があります。またこれに対して、「ちゃんといやだって言えるようにしよう」と呼びかけられることもしばしばです。
この問題は、社会的に男性が優越していたり、女性が下位におかれているといった問題と結びつけられて考えられることが多いのですが、身体的・社会的に無力であるために男性の要求を押しとおされてしまう、といった状況でなくても、女性がいやだと言えないことは少なくないのではないでしょうか。
なぜいやだと言えないのかという説明として、ひとつ考えられるのは、女性に対して性的な(あるいはセックスの機会に対する)受動性が社会的な役割として割り振られていることの影響、ということです。いわゆる女らしさであるとか、女性にとっての妥当な行動モデルとして、男性に対して積極的にはたらきかける行動ではなく、男性のはたらきかけに応じる行動が割り当てられていることが背景にあるのではないだろうか、ということです。
この女性に課せられた受動性は、男性に課せられたセックスへの能動性と表裏一体であるように思います。そしてこの、セックスへの能動性が男性にばかり課せられていることは、「なぜセックスを迫らずにいられないのか」というもうひとつの疑問への回答にもなっていると思います。
●男性のセクシュアリティ
男性が、自分自身のセクシュアリティ(=自分のセックスのあり方とか、セックスに対する考え方、感じ方)について考えたり、語ったりすることはあまりないと言われます。実際にはそうでもなくなってきているとは思うのですが、しかし「男性にとってセックスはこうあるべき」というようなメッセージが、周囲との会話やメディアを通して強く伝えられてしまうのに比べると、それは目立たないし、他の男性や女性との間でそれをまじめに考えることができるチャンスもあまりないように思われます。
しかし、男性のセックスに対する考え方や感じ方は、中絶の問題にも少なからず影響していると思います。ここでは、それについて思うところを記します。
男性に課せられた能動性
男性にはセックスに対する能動性が課せられている、と言うと違和感を持たれる方も多いかも知れませんが、女性に受動性が課せられているのと同じ程度、男性にそれが課せられていると言っても過言ではないと思います。あるいは、その両者は表裏一体であるのではないでしょうか。
女性は積極的に働きかけるのではなく、男性の働きかけを待っていなくてはいけない、という暗黙のルールが仮に(社会のある部分ででも)通用しているとすれば、それに対応する男性に対するルールとして、男性は待っているのではなく、積極的に働きかけなくてはいけないというルールも通用していると言えます。
セックスを求めるとき、男性が積極的に誘わなくてはいけない、場合によっては多少強引でなくてはいけない、そうでないとセックスのチャンスを逃してしまう。このような理解が通用していれば、それは正しかろうと正しくなかろうと、ある意味で男性に課せられたルールとして機能してしまうわけです。
その意味では、デートレイプなどは、女性が意志決定をするというルールと、男性が女性の受動性を前提に能動的にふるまうというルールの不一致がひとつの原因になっていると言うことができるかもしれません。同様に、避妊に関しても、知識が不十分であることに加え、このルールの不一致がしばしばきちんと避妊をしないことにつながっていると言えます。つまり、「能動的にふるまうべき」男性が十分な避妊知識を持っておらず、女性の意志を踏まえずに自分の行動を押しとおしてしまうというケースがあるのではないか、ということです。
男性のセクシュアリティは攻撃的である、という言い方がしばしば見られますが、むしろそれには違和感があります。男性が生まれ持って攻撃的なのか、それとも社会的に課せられた結果そのようになるのか、必ずしもどちらとは言いきれないとは思いますが、課せられる暗黙のルールの存在は無視できないし、それを無視して男性=攻撃的と考えることにはあまり意味がないのではないか、と思います。
射精への関心の集中
男性にとってセックスを考えるとき、しばしば射精することにばかり関心が向けられているように思います。これは、一方では射精だけが男性にとっての快感であるというような考え方にあらわれており、もう一方では、どうやって、どこで射精するかに対する関心の大きさにあらわれていると思います。
射精が男性にとって大きな快感をもたらすのは事実である、と言っていいと思うのですが、その一方で、セックスに対する幻想・ファンタジーが大きな役割を果たしていることは見過ごされているように思います。射精に至るまでの過程や、射精そのものに意味づけをするのはファンタジーであり、たとえばどんな相手とどんな行為をしているのか、その行為にはどんな価値があるのかといったセックスの「意味」は、射精そのものとは関係なく、幻想によってつくられていると言えます。逆に、適当な幻想なくしては射精に至らない(「こんな女じゃ勃たねえよ」?)ことはその裏付けになるでしょう。
(男性にとって、幻想が重要であると認識されるのは、もっぱらマスターベーションにおいてであると言えます。また、フェティシズムや性幻想の多様化によって、幻想・ファンタジーの重要性については意識されるようになりつつあると言えるかも知れません。)
他方、どうやって、どこで射精するかに対する関心の強さについても注目すべきです。大ざっぱに言って、マスターベーションよりも性行為のほうに価値があり、オーラルセックスよりも性器での射精に価値がある、また、膣内に直接射精することにはより価値があるといったような序列が一般に存在すると考えていいと思われます。実際には、このような考え方自体がすでに幻想の一部をなしていると言えるのですが、このような幻想はしばしば避妊に対する消極性につながっています。コンドームを使うのを嫌う男性のうち、どれくらいが実際に「気持ちよくなくなる」のかはわかりませんが、そこにこのような幻想が関わっている度合いは少なくないのではないでしょうか。
また、射精に対する極端な関心の集中は、「射精以外の気持ちよさ」の無視につながっているとも言えます。それに対してどうこう言うこともありませんが、男性がこのことについて考えてみる機会がもっとあってもいいのではないかと思います。
●パートナーの中絶体験
時々相談されるのは、今の彼氏やパートナーに、中絶体験を話した方がいいかどうか、ということです。これに対してはいろいろ意見があって、何とも言えません。隠しておけないから話す、という人もいれば、気分を害されるから話せない、という人もいます。また、自分ひとりで背負うべきものだから誰にも話さない、という人もいます。
一方、男性の側からもいろいろな反応がありました。話してくれてよかった、という人も、どうしてだか説明できないが不快な気持ちになったという人もいました。
それぞれの気持ちや意見に対して、何か言えるわけでもないし、結局は当事者の判断がすべてなのですが、個人的にはそれは話すべき、分かち合うべきことであるし、聞き、受け入れるべきことではないだろうかと思っています。これはあくまで個人的な意見です。
仮に、男性の側に立って、パートナーの過去の中絶体験を聞いたとします。そのとき自分が不快な気持ちになるとしたら、それはどうしてなのでしょうか?
彼女が過去に自分以外の人とセックスしたことがあるから?
彼女の過去の、自分以外の人との性体験を思わせる話を聞かされたから?
彼女の生殖能力に「傷が付いている」から?
自分にはわからない体験の話だから?
彼女の過去を分かち合いたくないから?
それは女性の問題であって自分が関わりを持つべきことではないから?
もしパートナーの話を聞いて不快な気持ちになったとしたら(という人がここを見ているかどうかわかりませんが)、なぜ自分がそう思うのか、考えてみてもらえればと思います。あなたの場合は、なぜですか?
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