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 ふりかえって(2001)

 いま思うと、当時自分ができたことは、当時なりのベストではあっても、いま思えばまだまだするべきことはたくさんあったし、身勝手だったり利己的だったり空々しい分かったふりだったりした部分が多くあったと思いました。言葉ですらもう少し選べたのではないかと。

 また、おなかのこどもに対する想像力の欠如は、今もなおそうですが、「男は分かってない」と言われる姿そのままです。強いて言うならば、女性がどれだけおなかのこどもの存在を強く、リアルに感じていて、それがどれだけ心のいたみの中で大きなものであるかについて、掲示板への書き込みを通じて思い知らされました。それでもまだ、自分のこととなると、それが分かった、と言うことはできません。

 また、倫理観のところで中絶は必要悪であるなどとさらっと言ってしまうのも醜く思えるくらいです。女性の気持ちからすると、どうしてもそうせざるを得ないということでは同じであるにしろ、もっと自分の中に痛みが伴っているものだということが分かっていたとは思えません。

 「望まれないで生まれることは」という部分なども、今となってはとても偏った断定にしか思えないのですが、自分にとって体験的な実感がこもっている部分でもあるのは事実です。

 中絶が殺しだという意見が「中絶せざるを得ない人に対して余分な罪悪感を背負わせる」というのも、今考えるとどこか勘違いしている。というのも、女性が罪悪感を感じるとすれば、人に殺しだと言われるよりもずっと、おなかの子供の存在をリアルに感じるからだ、と知らされたからです。

 それでも、当時思っていたことについて、隠すことなく出しておきたい、というのも、分かっていないことを自分に対して隠してしまうと、後から考え直すことすらできなくなってしまうからです。

 今でもまだ中絶に関わった男性が自分の体験を書き残しているページは数少ないです。女性の体験がこれだけ書かれているにもかかわらず、です。できれば自分以外の男性にも書いてほしい、いろいろな声を聞くことができるように、と思う一方、掲示板を通して、たくさんの男性が真剣かつ誠実にパートナーの不慮の妊娠に対して関わっていることも知りました。

 「まずはじめに」以下が当時書いた内容です。いろいろと雑だった、と今では思いますが、上記のような問題点を除くと、今も同じように思う部分は多いです。



 まずはじめに(1998)

 自分のガールフレンドが(おそらく)自分のせいで望まない妊娠をしてしまう、そして中絶する、そういう時に自分に何ができるかとか、どうしたらいいと思ったか、について、そしてそもそもどうしてそんなことになってしまったのか、について記録しようと思います。

 ページ全体の存在理由と同じことの繰り返しになりますが、そういうことがとても多いのに、そういうことについての記録があまりないことや、自分のしでかしたへまから少しでも学習できればいいと思ったこともそうする理由の一つです。特に中絶した女のコメントはまだしも、中絶させた男のコメントというのは本当に見あたらないし、あったとしてもやけ酒のんだとか胸くそ悪かったとか金出したとかとかいう話ではなんの役にも立たないし、そうじゃない男の側のコメントがどこかで出ていてもいいだろうと考えました。

 事実関係に関しては女の側の方がきっとくわしく書くことができることでしょう。後でも書きますが、どんなに忘れないようにしようとしても、自分のものでない痛みについてはどうしても忘れがちだからです。なので、むしろここでは中絶させた男としてどう感じたか、何ができると思ったか、そういうことについて書いておくつもりです。



 倫理観(1998)

 まず、妊娠中絶をめぐって絶対出てくるのが、中絶は悪であるかという倫理的議論だと思うし、現にネット上でも目立つのは中絶反対の意見なので、そういうことに関しての自分の立場について書きます。

 中絶は悪いことか、と聞かれたらそうだと答えるでしょう。なぜなら、中絶する人の身体にダメージを与えるから。医学的にどうとかはおいておいても、とにかくまず痛がっていたから。そんなことはしないほうがいい。

 でも、実際には産めない、子供は育てられない、というときに、それをするなということはできないし、そんな状態で産むことの方がより悪い結果をもたらすように思えます。それを加味して言えば、妊娠中絶は必要悪だという言いかたにもなると思います。

 中絶は殺しであるからダメだという意見がありますが、それには賛成しません。ひとつには、望まれないで生まれるほうがよほどひどいことだと考えるからです。また、そういう言い方をすることは、中絶せざるを得ない人に対して余分な罪悪感を背負わせることになるからです。

 さらにもうひとつ、これをはっきりと言うことがいいかどうかわかりませんが、想像力が働くのが自分のガールフレンドどまりで、中絶される胎児についてはどうやっても同情のようなものがまわらないというのもあります。正直に言って、自分とガールフレンドが良ければ、あとのことについては判断していられないというのが個人的な感覚です。

 なんて冷たい、身勝手な、偽善的な、と思われることでしょう。そう思います。ですが、そのような自分の意見をここで取り繕おうとは思いません。どんなに相手のことを気遣ったとしても、自分でないもののいたみはわかりません。想像することしかできません。わかったふりしかできません。しかも、自分で同種のものを体験することのないいたみです。わかるわけがありません。なにもわからない。せめて頭で覚えておこうとしてもすぐ忘れてしまう。その結果がこういう突きはなした意見になって如実にあらわれているといっていいでしょう。

 自分は無感覚で時にエゴイスティックな人間であり、そのことを肯定して生きています。そんな人間が、とりあえず自分のガールフレンドを妊娠させてしまったとき、どう感じたか、何ができたかを以下に記します。



 だいたいの経緯(1998)

 妊娠

 最初、どうも生理が遅れていると聞いて、ふうん、と思う。もちろん妊娠していると思ってはいない。早く生理来るといいね、と話す。二三日して、まだ生理来ないと聞く。それでも妊娠しているだろうとは思わない。早く来るといいねと繰り返す。

 妊娠の可能性に思い当たらないのにはそれなりの理由がある。自分はセックスの経験があまりない。すごくおくてだった。そのことが逆に、妊娠とかはやりまくっているひとの間で起きるものであって自分には関係ないという思いこみにつながっていた。しかも、自分で自分を良識派だと思っていて、コンドームをつけるのは当然、と思っている。つけなかったのはたった一回。リードされていて任せきりにしていたとき。そうでなければつけていただろうとは今でも思う。ただし、相手が自分を気持ちよくさせるために自身の安全を犠牲にする可能性など、考えてもいなかった。彼女が二度の中絶によって、傷つけられていたことについてはわりとくわしく聞いていたつもりだったが、実際には三度目の中絶をさせることになったのは自分だった。

 数日してふたりして旅行に行く。彼女は調子が悪い。すぐ疲れる。眠ってばかりいる。吐いているらしい。でも、もとからしばしば吐く人なので、またか、困ったなとしか思わない。精神状態も不安定だが、それもいつもと区別をつけられない。しかし、あまりの体調の悪さにとうとう妊娠検査薬を買い、チェックする。妊娠だった。

 その時どう思ったか。自分についてはどうも思わない。倫理観のなさからか、精神的なショックを感じるわけではない。ただ、そんなへまをする自分がとてもださいと思った。一方で彼女のことは、身体的なことよりむしろ精神的なことが気になった。とりあえず、彼女をかばわなければいけないとやや格好付け気味に思った。奇妙な表現だが、妊娠させてしまった責任よりも、そのあと責任を果たすことに意識が集中する。金銭的な負担を覚悟する。金銭については相手が考えなくてよい状態にしなければと思う。

 妊娠させた可能性があるのは二人の男で、自分の方がやや確率が高い。どちらだと問うことには意味がないし、そう問えば彼女の精神的負担は増すだろう。そう考え、どうであろうとこの妊娠は自分に責任があるものとして対処しよう、と思った。

 彼女はまずはっきり、今の自分には子供を育てられないので中絶しなければならない、と言った。彼女は二度の妊娠中絶経験があり、中絶はどうやってするかを知っている。そんなに取り乱したりもしなかった。おかげで、と言うべきか、おなかの子供をどうするか、自分で考えることはなく、彼女をどう助けるかを考えるだけでよかった。もちろん今考えれば、自分は学生であり、すぐに就職するわけでもないこと、彼女も学生であることなどから、自分で考えたとしても中絶という結論に至ったことだろうし、そう結論づけるプロセスを体験していれば、もっと心が痛んだかも知れない。


 病院を探す−入院までの間

 とりあえず彼女が告げたのは、産婦人科に行かなければならないこと、できれば女医さんが望ましいこと、だいたいの費用、などについてだった。病院は彼女の家か自分の家の近くが望ましく、どちらかと言えば自分の家の近くで病院を探し、手術後はしばらく自分の家で過ごす方がよいだろうと話し合った。手術後二、三日はとてもおなかが痛くなるので、できれば寝ていたい、と彼女が言い、それを見舞いに行くよりはいっそ自分の家で引き受けようと思ったからだ。

 旅行から帰って病院を探す。初めは電話番号案内などから医療情報サービスに問い合わせるが、女医さんかどうかは調べられない。それでも見つけたある診療所にとりあえず行くことにする。病院へ付き添うことは彼女が望まなかったのでしなかったが、その帰りに待ち合わせる。他の病院でも診察を受けたいと彼女が言うので、今度は職業別電話帳で探す。すると、意外に多くの医院が女医であることを明記していた。

 次に行った医院の方を彼女は選ぶ。納得のいく説明があったことなどが理由だと言っていた。入院する日までの間、そばにいた時間の方を多く思い出すが、スケジュールなどを見てみると、そうでもなかったらしい。結構関係ない用事がいろいろ入っていて、後になってみると驚く。

 いっしょにいる間にしたことは、とりあえず彼女の話を聞くこと、絶対に自分のこととして分かりはしないということを分かりながら、少しでも分かったり、分かったふりができるようになろうとすることだった。彼女は自分の体がどんな状態で、どのような吐き気や不快感がするか、妊娠していることでどんなに自分の心が勝手におかあさんになっていってしまうか、それを中絶することがどんなに罪悪感と悲しさが伴うか、過去の中絶の時にどれだけ憎しみを感じたか、喪失感がどんなものであったか、について語った。
 自分はそれまでにも彼女の話をわりと聞いていたので、その時も話を聞くのはいつも通りのことではあった。しかしそれだけではなく、自分の中には、この体験を自分のものとして儲けようという気持ちがあったように思う。自分が妊娠させたと知ったとき、自分は決して妊娠することのない体であり、それどころか人を妊娠させてしまう側であったと思い知らされたので、逆にそのそばにいることで会得するものがあるのではないかと大それたことを思っていた。

 中絶の承諾書は、彼女がもうひとりの人のほうに書いてもらっていた。中絶費用は16万円。それを彼女が半額、残りの半額を二人の男が4分の1ずつ支払うことにした。ただし当初は二人の男が半額ずつ出し、それを彼女が分割で返すという形で。自分の金銭的負担はむしろ多い方が気分的に楽だと思ったが、彼女はそうしたいと言った。人に借りをつくるのがいやなのだと言っていた。


 中絶手術

 手術の前日、夜病院に行くのについていった。それまでの期間、とにかく彼女はつわりに苦しみ、ものが食べられず、吐きまくっていたが、この夜もたしか何も食べたくないのだと言っていたのだと思う。翌朝、午前中に手術があって、昼ごろ麻酔がさめるが何時かはわからないということだったので、それまでに部屋を片付けたりして家でずっと待っていた。昼過ぎに電話があり、いま病院から出てきたところだというので、タクシーに乗ってむかえにいき、折り返しうちまで帰った。

 彼女が語ったところによればれまでの手術は後がめちゃめちゃつらく、何日も苦しむということだったので、かなりひどい状態であると覚悟したが、思っていたよりも元気そうで、おなかが減ったといってパンを食べながら待っていたのを思い出す。彼女自身も思ったより元気だと言った。それは中絶の技術やていねいさにもよるのだろうと後で言っていた。しばらくはものも食べられないほどだということだったのだが、うちに帰ってみたら彼女が空腹だと言うので、カニチャーハンをつくって一緒に食べた。

 手術後の彼女の体調については、わりとそばにいたにも関わらず、いまいち自分はよく分かっていない。なぜなら彼女は、平気な顔をしながら無理をするタイプだからだ。自分はつらかったら絶対ダメなので、よけいにその感覚がうまくつかめない。とりあえず、手術の終わったその夜、自分たちはうなぎを食べた。食べたいか聞いたら食べたいし食べられると言ったのと、彼女のためにできることとして食べることしか思いつかなかったせいもある。しかも、彼女はその夜自宅に帰った。自宅に帰らないと休まらないと、それはいつでも言っているのだが、いささか拍子抜けした。

 しかし、それでもう元気かというとそうでもなく、実はおなかが痛い(ものすごくひどい下痢をしているような状態だと言っていた)のを我慢しているのだろうとは思っていた。実際に何度か無理をしてバイトに行って、帰りにおなかが痛くなってうちから迎えに行ったこともあった。それでも彼女は自分だったらそんなとき絶対にやらないような調子で動き回り、ときどきおなかが痛いと言いつつ(あと血がすごく出るとも言っていた)休まないでいた。気持ちとしてそうしないではいられなかったのかもしれないとも思う。


 その後

 その後はあまり中絶の話とは関係ない。とりあえず、彼女の見た目の回復は早く、自分は彼女が中絶したばかりだということをときどき忘れるくらいだった。涙を流すのを見たり、おなかが痛いと言われないと覚えていられないのだ。自分には痛みがないから。

 実際には精神的な部分も含めて、彼女のとりあえずの回復は早かったのだと思う。中絶のあと、しばらくして彼女は、それまでも少しつきあっていた別の人と急速に仲が深まり、その人のところに通うようになった。その人の家は自分の家から近く、はじめは自分の家からその人の家へ直接出かけていったりするのを面白がって見ていた時期もあったが、彼女の心はすぐにその人の方に移ってしまい、手術後半月くらいで別れ話をした。手術後半月だとはまったく思えなかった。二人ともそうだったのだろう。

 別れ話をしたとき、ちぇっとかちくしょうとか真剣に思っていた。この人に自分はとてもつらい思いをさせたのだということなど全然忘れて。



 中絶させた男の感想(1998)

 妊娠させたこと

 彼女が妊娠した時に感じたのは、まず驚きだった。自分がそういうことになるとは思ってもいなかったからだ。そう思ってもいなかったことには理由がある。自分がセックスに関してとてもおくてであると思っていたし(実際そうだ)、そしてコンドームはつけてあたりまえというモラルにもずっと同意していた。望まない妊娠をしてしまう人々のイメージ−セックスの回数も多く、避妊を重要視しない−と自分を対比させて、自分にはそういうことは無縁だと考えていた。

 実際にはそれが裏目に出る。つまり、コンドームは当然と思っていても、使った経験がないとその場でちゃんとできない。つけかたが分からないという話ではなく、つけさせないでしてしまう女性がいるということをよく分かっていない。こちらから求めたわけでもないのに、その方が男が気持ちいいだろうと慮ってコンドームなしでセックスしてしまう女性がいる。それが分かっていて、なおかつきちんと避妊できる必要が本当はあったのだ。自分には無縁だと思っているから、そういう時にきちんとしないとまずいという危機感も薄い。しかし言い訳のようだが、彼女にその場でリードされたままでいなければ自分はコンドームをつけたと思う。

 彼女の妊娠がはっきり分かったときの気分は、罪悪感というよりもむしろ、実にダサイことをしたという気分だった。まったく、つまらないヘマだった。


 手術の前後で

 妊娠したとはっきりしてから手術がすむまで、とりあえず思ったのはできるだけのことをしようということだった。金銭的なことだけでなく、生活においても、メンタルな部分でも彼女を有効にサポートしたいと思ったし、悪いことをしたと感じるよりその方が役に立つと思っていた。彼女がそれまでに二回、中絶手術をしていることは知っていたし、その前後でとても傷ついていたことも聞いていた。なのに三度目にこの自分が、と思う反面、じゃあせめてできることをと思った。よくいえば良識だが、悪くいえばいやらしいヒロイズムでもある。それは自分でも分かっていたが、何もしないよりはましだったと思う。

 後からふり返ってみて、自分はできるだけのことはしたと思っている。根本的にはなんの解決にもなっていないが、妊娠してしまってからのフォローとしてはきちんとしたと自分では思っていて、ある種の満足も覚えた。彼女の世話をあれこれと焼いていて、正直に言えば楽しかったし、もう一人の男が彼女に何もできないと言い、金銭的なこと以外何もできなかったと聞いて、自分は彼に勝ったと思った。けっこういい気なものだ。働いたことで自己満足して罪悪感をパスしようとしているのだから。

 そんなわけで、自分ができたことに対しては自分でも評価できるが、それでうっかり喜んでいる自分はまったくみっともないと感じている。


 人の痛みを忘れてしまうこと

 自分にない感覚を分かろうとするのは難しい。人の痛みは言葉でしか聞けないし、それでは結局分からない。分かったつもりでいても分かっていなかったと知らされるのは、その痛みのことをすっかり忘れている自分に気づいたときだ。

 人の痛みは分からない。そしてそれを覚えていられない。もちろん自分がエゴイストなのもあるが、それより何より人の感覚は分からないと思い知らされた。特に、自分で感じることがないであろう痛み、体に対応する部分がない場合、それはいっそう分からなくなる。

 せめてできるのは、自分がどれだけ忘れやすいかを知ること、そして見聞きしたことを覚えておくことだけだ。彼女が語った体の痛み、体内の異物でしかなかったこどもがいなくなることの喪失感、彼女が吐いたり気分が悪くなったりしていたことをずっと覚えておこうと思う。それは自分にとっても役に立たないことではないはずだ。



 男にできること(1998)

 避妊

 避妊のために本当に必要なことは、避妊の方法だけでなくて、セックスについてよく知ることだと思う。自分はセックスについて知らなすぎた。

 本当に知っていなければならなかったのは、セックスのやり方や避妊のやり方、教科書的な体のしくみだけではなくて、その人がどういう体をしているか、どんなときにどう感じるのか、体の調子や生理の状態はどうなのか、そういったことだった。

 それは許される以上に知ろうとすることなのかもしれないけれど、関心を持つこと自体は間違っていないと思うし、それは相手の心について知ることにもつながる。相手がその方が気持ちよかろうと、頼んだわけではなくても自分の体の安全を犠牲にしてしまうような人がいる。相手がそういう人なら、それを知って、もし相手のことを大切にするつもりならそれを配慮してセックスすべきだったのだ。


 中絶させることになってしまったら

 すでに取り返しはつかないが、それでもより物事をましにするためにサポートすることはできると思う。

 なにより、相手をサポートするよという姿勢を見せること、話を聞くこと、責任を投げ捨てないこと。そういうことなんだろう。

 でもそれは本当はとても難しい。だからせめてそうしようとすること、そういうふりをすることで、少しでも何かしようとすることができるのではないかと思う。ふりをするということは、うそをつくことではなくて、相手にそうしようとしていることを伝えるために努力することであるだろうと思うし、たとえそれがうまく行かずに空々しいものになってしまったとしても、何もしないよりはきっとましだろうと思う。

 そして男の領域・女の領域という考えにとらわれないで、相手のつらさに自分から関わろうとするべきではないかと思う。そうしなければ相手の痛みは分からないし、そうしなければそれは教えてもらえない。多くの人がそうであるように、相手もまた妊娠は女の領域であり、男はそこに関われないという考えにとらわれているかも知れない。

 一方自分では、中絶についてよく知らずにおびえたり動転したりしてしまった人と接することや、中絶するかしないかの選択をシビアに迫られることは経験しなかった。それはラッキーなことだったとは思うけれど、そういう時にどうしたらいいかは学ばなかった。そういう時にどうしたらいいかについては、それに関わった「中絶させた男」の誰かに語ってほしい。